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念仏のくらし
 『般若心経』の経題−
      一人ひとりの心奥の智慧
山 本 空 外 


 梵語で「paramita 波羅蜜多」というのは「param彼岸に、ita到った」という意味です。厳密には、「到った状態」を指すのです。今日の科学的知恵というのは、外側を法則的に研究するものです。外も大事ですが、もっと大事なのは心の内の方です。外というのは、見かけだけです。私どもがよい着物を着ても、外面的のことです。ところが腹を立てると、内面的にすべて乱れてきます。自動車に乗っても外の見かけだけです。運転を誤ると人を殺したり、自分も死んだりします。科学の世界が都合よくしてくれるのは、外面のことだけしかないわけです。内面は心の世界ですから、科学ではどうすることもできないです。科学的には、幾らいい自動車に乗られるようになっても、腹立てずに済まそうというわけにはいかないのです。心を深めていく、豊かにしていくのは、どうしても一律的な科学的法則ではだめです。一人ひとりが気をつけなければなりません。各各性です。
 そのように科学の世界というのは外面的にしか研究できないのです。内面の心奥は研究できないのです。どんなに電子計算機を使っても、私がここに立つとどういう話をするかというようなことは予知できません。どんなに私の脳波や心電図を調べても、胃カメラを飲ませても、ここに立ってどんな話をするかわからない。第一、調べるお医者さまがわからない。お医者さまは自分の知っておられることで、ああとかこうとか、判断されるのですから、それ以外の御自身のご存知でないことは判断がつきかねます。だから、つまり、心の問題は一人ひとりのことなのです。一律に法則的に調べただけでは予知できないことが、一人ひとりの心奥に働いているのです。外面も大事なのですが、まだ大事なものがある、心奥に一人ひとりの問題があります。智慧というのはその内面的な角角性の智慧なのです。この『般若心経』のもとのお経の』般若波羅蜜多経』、簡単に『般若経』ですが、六百巻もあり、『大般若経』といいます。その『大般若経』を解釈した大事な書物に、龍樹の『大智度論』という本があります。この「大」は『般若心経』でも「摩訶」といって同様です。「マカ」、「ナハー」とは梵語で「大」という意味です。分量が大きいという意味じゃなくて、大自然に通づるという意味です。「智」というのは「般若の智慧」です。「度」というのは、「渡る」という意味です。彼岸に渡る、つまり大きな智慧で世の中を渡って彼岸に入るという本です。
 この本の著者の「龍樹(りゅうじゅ)Nagarjunaナガールジュナ」はインド一番の学者です。インドで一人だけ仏教学者の名前を挙げるということになると、龍樹と大抵の人が言います。私もそう思います。お釈迦さまの仏教をまとめた人で、年代は西暦一五〇年から二五〇年、したがって、二世紀から三世紀にわたって出た人です。おおよそ千八百年前の人です。この人がお釈迦さまの仏教をまとめて、縁起とは「空」だと言ったのです。この龍樹の著作に『中論』という大事な本があります。それに「空」について詳しくとかれています。「空」というのは、おかげという意味です。「かげ」は表に出ない。表に出てくるものについては、科学が研究します。表へ出ない、内に隠れているものがある、それを「空」というのです。その隠れたところが大事なのです。大きいのです。

各各が内なる命へ平等に近づく−
   方便道の確率


 外に出たものは知れたものです。計算できるのです。人の鼻が低いとか高いとかは計算できます。どちらがよいかというと高い方がいい。お金が多いか少ないかは、計算できます。いずれがよいかというなら、多いほうがいい。これはだれでも同感でしょう。ところが内面的な心奥に入りますと、鼻の高い低いには関係なしに、空気は平等に吸えるのですから。高い人が低い人の倍吸うというわけにはいかない。高い人が吸った後でないと低い人は吸えないというわけでもないですから。だから内面的には平等なのです。それを考えないで、外面的な計算だけをし出すと、苦になることも少なくありません。
 お金も多い方がよい。そうでしょう。ところがお金の多い方が長く生きるかどうかは決まっていない。命の方は平等です。貧乏でも長く生きる人があります。お金があっても早く亡くなる人もある。外面的計算の方は、計算だけで多・少の二つを並べて考えると、多い方がよいですよ。しかし、内面的に平等の命を一人ひとりなりに悟ってくると、外面的多・少の方は百分の一、千分の一にも当たらないぐらいです。外のよしあしは実はそうなのです。それで度胸ができるのです。死ぬときも、「アミダさま」のお慈悲がありがたくて死んでいけるようになるのです。それを外面的軽量ばかり考えて、平等の命の法をさっぱり考えないから、つまらないこと、情けないこと、しゃくにさわることで一生涯を終わってしまうのです。「空」というのは、『般若心経』によく出てくるから、いずれお話しするとして、今は一応のことにしておきます。さて、『大智度論』という本は百巻もあって、もうフランス語訳も出ているのです。その『大智度論』が一番力説しているのは、「一切衆生の各各の方便門を知る」ということです。一切の人々、各各です。お金持ちが好くようなことだけを考えていると、貧乏な人はうらやましがるだけです。「方便」というのは、日本語では「うしも方便」だなどという言葉がありますが、言葉で「upaya・ウパーヤ」といいまして、近づく、迫るという意味です。それは平等の命に迫るのです。今まで外面に向いていたのが、内面に向ってくるのです。一人ひとりなりにです。体の強い人のようには、弱い人はできない。また学問のある人のようには、ない人はできません。各各(おのおの)が各各(おのおの)なりに迫っていく、そこを知っていかねばなりません。それが般若の智慧だからです。
 般若の智慧ではそのように各各ということが非常に大事になってきます。「各各」ということに考えが決まれば、人間はもう、人をうらやましがらないようになります。うらやましがっても、はじまらないのですから。なぜかというと、一人ひとりなりの各各性にこそ、独自の人生価値も掘り起こせるのですし、うらやましがっているその時間だけでも自分の働きのできる時間を失うことにもなって、自分の仕事が本来の半分しかできないようになる。そうすると、いよいよ不満足な状態に追い込まれることになります。だから自分は自分の力いっぱいの仕事をいつもできるように、自分自身に取り組まねばいけないのです。
 人をうらやましがっていたらいけないというもう一つの理由は、他人(ひと)ができることを、自分が本当にやろうというのは無理だからです。弁栄上人(一八五九〜一九二〇)のおできになったことを、そのとおりに我々がやろうといっても、それは無理です。栄上人のお父様は念仏嘉平と言われた方です。お父様の山崎嘉平さまは、お百姓でしたが、非常に念仏を喜ばれた。朝三時に起きて鉦鈷を打ってお念仏しておられたのです。その念仏の鉦鈷(しょうこく)の音が村中四方に聞こえた。今ごろだと、やかましいという人もあるかもしれませんが、昔はそういうようなことは、言われなかったのです。ああ、感心なものだなあ、よくお念仏をなさるなあと村人たちは思った。
 みんなが念仏嘉平と呼ぶようになったほどの方をお父さまに持たれたので、弁栄上人のようなお方も、お生まれになられる仏縁が豊にあったのです。それでは、念仏嘉平さまの子供は、みんな弁栄上人のように念仏されたかというと違います。弁栄上人には弁栄上人の持ち分がまた、遺伝されているのです。だから各各性なのです。各各性だから、幾ら弁栄上人のようになろうといったところで、皆さんのお父さまは毎朝三時から起きて念仏するような人じゃあないでしょうから、同じようにはいきません。たとえ同じ念仏嘉平さまの子供でも、弁栄上人のご兄弟がみんなそのように念仏を喜ばれたのではない。弁栄上人が特別なのはやはり、各各性なのです。弁栄上人は弁栄上人としての持ち分がおありになるのです。  
『いのちのみのり』山本空外講述 昭和五十一年(一九七六年)
財団法人光明修養会刊 抄録

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