本名:山本幹夫 |
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明治35年(1902)9月13日 |
広島市で出生 |
大正9年9月 |
広島県立広島第一中学校(五年制)を4年で修了 |
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旧制松山高等学校文化乙類入学(現 愛媛大学) |
高校時代 |
人間のねうち 人間としての生き方
自己とは何かの問題の解決に生死をかける |
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弁栄聖者高弟藤本浄本上人の指導により念仏三昧を成就し霊性の世界に覚醒 |
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以来七十有余年終生にわたり教行一致の不断念仏の生活 |
大正12年3月・4月 |
旧制松山高等学校文化乙類を主席で卒業 |
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旧制東京帝国大学文学部入学(現 東京大学) |
大正15年3月 |
同大学文学部哲学科を首席で卒業 |
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原典研究の必要上、洋の東西古今の各国語に精通 |
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書道・華道・茶道・絵画においても非凡なる才を示す
スポーツは高校時代のボートに代わってテニス部で活躍 |
昭和2年3月(25歳) |
旧制山形高等学校講師に就任 |
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翌年10月 同校教授に昇任
学生の指導と研究に専念 |
昭和4年4月 |
広島文理科大学創設に際して助教授に就任(現 広島大学)
倫理学を担当 |
昭和4年より2年6ヶ月 |
文部省在外研究員としてドイツ・フランスの諸大学で世界的に令名を馳せる哲学者たちのもとで研究生活 |
昭和6年8月 |
アメリカ経由で帰国 |
昭和10年4月(32歳) |
博士論文を旧制東京帝国大学に提出
文学博士号取得 |
昭和11年3月 |
広島文理科大学教授に昇任 |
昭和12年4月3日(34歳) |
アキ夫人と結婚(夫人は大阪外国語大学初代学長中目覚教授の息女) |
昭和20年8月(42歳) |
広島で被爆 学生、同僚教授等多数死亡 二十世紀の知性の敗北を痛感
九死に一生を得て爆心地で救護活動に専念 |
昭和20年9月 |
京都・知恩院にて浄土宗管長・知恩院門跡 望月信亨博士のもとで仏門に入る |
昭和22年5月 |
島根県大原郡加茂町の山里 隆法寺に晋山(就任) |
昭和22年10月(45歳) |
広島文理科大学教授を退官 これ以後、隠遁の念仏生活 |
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毎年別時念仏会を隆法寺において行う一方、出雲地方の各地寺院等で指導 |
昭和27年1月 |
懇請に抗し難く愛媛大学文理学部教授に就任 |
昭和28年3月 |
京都府相楽郡山城町上狛、法蓮寺住職を兼務 |
昭和28年4月 |
広島大学文学部哲学科主任教授再任を同大学長のねばり強い要請により受諾
広島大学大学院の修士・博士課程を指導 |
昭和30年(より十有余年) |
愛媛大学・岡山大学・山口大学・福岡教育大学・仏教大学で毎年、哲学・倫理学・書論大系などを集中講義 |
昭和41年3月(63歳) |
広島大学教授を定年退官 |
昭和41年5月 |
広島大学名誉教授
これ以後全国各地寺院その他で念仏の指導と著述等に専念 |
昭和49年11月 |
財団法人光明修養会上首に就任 |
昭和52年4月 |
隆法寺に研修館設立 |
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隆法寺住職に弟子 中島空慧師を推挙し退任 |
昭和53年11月 |
隆法寺・法蓮寺・知恩院に巨大な自然石に名号を自書陰刻し墓碑建立 |
昭和57年 |
島根空外会の結成を認める |
昭和61年4月 |
財団法人空外記念館設立認可 同理事長に就任 |
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隆法寺の隣接地で建築工事を開始 |
平成元年10月(87歳) |
財団法人空外記念館開館
生涯自身の身辺で愛用してきたさまざまな文物や蔵書などのすべてと自己作品を収蔵
二十世紀の正倉院とも評されている |
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以後毎年10月の開館期間中に別時念仏会を催して指導 |
平成7年4月 |
絶筆となった墨書作品数点を揮毫 |
平成9年10月(95歳) |
財団法人空外記念館主催の別時念仏会において最後の指導 |
平成13年(2001)8月7日 |
法蓮寺にて遷化 保寿百歳 |
平成13年10月 |
隆法寺境内の大名号碑に納骨(知恩院特別墓域および隆法寺の墓所にも分骨) |