実は悪いだけの人はいないのです。赤軍派の学生を悪いというけれども、あんなに多くの仲間を殺したために、赤軍派になろうかと思っていた青年でも、考え直させるようになるかもしれません。そうすると、菩薩の面もあるでしょう。二人の警官が撃たれて殺されましたが、ソ連やアメリカのように、そんな学生を撃ち殺していたら、警官の信頼は増しません。自分は撃たれても、向こうを撃たない。それで二人とも亡くなられてお気の毒ですが、そのおかげで何百人、何千人の警官が信用を高め、国民の信頼をつかめた。だから亡くなられた二人の警官は日本の警官の信頼を高める働きをしています。そんなのを「菩薩」というのです。
だから考えようによれば、あながち悪いことばかりでもないですね。悪いというのは、自分に都合の悪いことがあるからそういうのです。深く考えていったら、病気でも泥棒でも、内面的に反省すれば生かせる道はあります。もし病気がない世の中になったら、人間はわがままになってしょうがないです。病気があってくれるおかげで、少し勝手をしないのかもしれません。泥棒もいてくれるおかげで、少ししまりがつく。泥棒もいないようになると、だらしのない世の中になるかもしれません。そのだらしなさの方が、どれほど、人間の生活を乱していくかもしれない。だから世の中のことは、自分の考え方一つで、まあ、悪いようなことでも、拝める気持ちで暮らせるものです。そういう心持ちを持つようにならないと、人をうらんだり、人に威張ったり、ねたんだり、腹を立てたり、けんかしたりしているだけです。これでは、生活が動物的ではないでしょうか。
せっかくお釈迦様も出なさった、法然上人もお念仏を教えられた。我々はその後輩ですから、もう少し広く、深く考えねばいけません。今は筋道を示すだけですが、『般若経』の「幹」に『法華経』や『華厳経』という慈悲の華が咲いてくると、だれもが悟られる、そして悪いことをでも拝めるような心になれる、心が広く、深くなってきます。そうすると『無量寿経』というお経が出てくるのです。『無量寿経』に「アミダさま」の本願の実がなってくるのですが、この本願の実というのが四十八もあって、だから、我々にはなかなか手に負えません。手に負えないということは、わかりやすく申しますと、高い枝の上にあるということです。普通の人は、木登りをしようと思っても、難しい、できないです。だから、この実が熟して、いわば地上に落ちてくれさえすれば、身体に障害のある人でも、取って食べられる。死に際の人でも、悟れるわけです。それで口称(くしょう)しさえすればよい「ナムアミダ仏」にまとまったのです。
『無量寿経』をまとめたのが『観無量寿経』ですが、その中に初めて「ナムアミダ仏」が説かれているのはそういう意味です。一貫して、経典を総合的に見ないといけません。そうでないと、『般若経』がよいとか、『華厳経』でなければとか、『法華経』でないといけないとか言い張るようになる。『法華経』は孤立してあるのではない、みんな前後の経典と関連しているのです。『法華経』第二十五普門品の観音の三十三身とか、『華厳経』の善知識の五十三とか、『無量寿経』の本願の四十八とかが説かれるのは、「ナムアミダ仏」にまとまってくる土台になっているのです。
『般若心経』の経題―――
一人ひとりの心奥の智慈
そこで、これから大乗仏教の幹ともいうべき『般若経』の核をなす『般若心経』の話に入りますが、詳しくは『摩訶般若波羅蜜多心経』というのです。簡単にただ『心経』といっても、『般若心経』といっても、もとは『摩訶般若波羅蜜多心経』というのです。「般若」は「智慈」という意味です。しかしこの「智慈」は、科学の「知恵」とは違っています。どんどん進む科学の知恵は、進むのはよいが、機械が多くできて公害がふえる。だから十の良いことがあっても、二十も三十も悪いことがついてくる、結局は困るのです。ところが「般若の智慈」はそれと違うのです。悟れるほど、この智慈がわかるほど、ためになるのです。公害は一つもないのです。そういう智慈です。なぜか。先ほどちょっと申し上げたように、この「般若の智慈」が花や実を結んで、そしてやがて、「ナムアミダ仏」におさまるのも、この「般若の智慈」のおかげなのです。簡単にいえば、みんながお釈迦様のようになれる智慈です。公害が起きるはずがありません。だから、これから世界を救うものは、これ以外にないのです。
その次に「波羅」というのは「彼岸」という意味です。原語は「paraパーラ」と申します。音波の波と羅紗(らしゃ)の羅だから、「パーラ」と読んで当然ですが、ハラとなまり出したのです。「彼岸」というのは、「彼方の岸」という意味です。極楽というのも同じ意味です。遠くの方のような気がします。「西の方十万億の仏土を過ぎて(阿弥陀経)」といって遠くのようですが、実は近いのです。悟れば「ここ」です。悟らないから遠くになるのです。そうでしょう。悟らぬから、公害で困る。すると公害で困らない世界は遠くのような気がする。今から何年たつと公害のない世の中になるだろうか、よほど先のような気がするでしょう。
「ナムアミダ仏」というと、ここで公害がなくなるのです。きょうから、日本人がみんな「ナムアミダ仏」と言って、「コンチクショウ」も「ばかやろう」も言わない、言いかけて、「ばか」の「バ」が出ても「バ・ナムアミダ仏」、「コンチクショウ」の「コ」が出ても「コ・ナムアミダ仏」と申して、心の乱れを早目に整理して浄化急ぐように専修するのです。腹がたつとけんかにもなるから、ついけがもしたり、病気にもなるのです。ならなくてもよい人までがなる、ならねばならない人は半分もいません。自動車事故でも、やむを得ない事故は半分もないでしょう。ちょっと気をつけると、避けられる事故です。その証拠に交通事故の一番多い県が変わります。ちょっと気をつけると事故は減るのです。それが「彼岸」につながるのです。きょうからできるのです。病人も、事故も半減です。それは彼岸に直通します。換言すれば、公害も減少し、その反面、精神的に豊かさの深いところを「彼岸」というのです。公害は他人がやるように、会社がやるように思っています。それも公害ですが、まだ気をつけないといけない公害は、自分による公害です。腹を立てると体中の血も汚れるし、ホルモンも乱れて、心臓をやられます。脳もやられますから。一度腹を立てるとお医者様のお世話になるもとをつくる。また、自分が病気になると医師の手を煩わせ、どうしても避けられない病気の人までもが詳しく診てもらえないような結果になります。
私は戦後お医者さまにかかったことがない、その分だけでも、他の、病気になるような体質の人はゆっくり診ていただけます。それだけ人のためにもなるわけです。だから他と対立的になるような平和運動などしなくても、「ナムアミダ仏」と言って病気にかからないだけでも、何倍も世のためになります。「彼岸」とはそういう意味です。他に場所的にあるのではない、心の中に掘り起こせる宝です。「称名」の生活の中に「彼岸の生活」があって、人さまのために知らず知らずになっているのです。自分も病気をしなくて済む、けんかをしなくても済むのです。それは、「ナムアミダ仏」のおかげで豊かな深い生活ができ、人生を全うされてくるからです。それを彼岸といいます。
『いのちのみのり』山本空外講述 昭和五十一年(一九七六年)
財団法人光明修養会刊 抄録 |
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