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今年は山本空外先生がお浄土になられてから三年になります。空外先生のこと等を憶い出しながら、大乗仏教、浄土教、そして弁栄聖者等の事等についてお話させていただきたく存じます。
空外先生は東大の哲学科を卒業せられて(大正十五年)、更に研究を進められていきました。卒業論文はカントを中心とするドイツ近代哲学をテーマとするものでありましたが、学位論文は古代哲学を完成させたプロティノスについてでありました。テーマは「哲学体系構成の二途―プロティノス解釈試論―」であります。それは間もなく一冊の著書として刊行されるわけですが(昭和十二年)、この著の巻頭に「この著を弁栄聖者に捧ぐ」とありますように、空外上人と弁栄聖者の間には切り離すことのできない深い因縁があります。空外哲学の成立とその展開には無数の因縁が考えらるのでありましょうが、しかし何にも勝して弁栄聖者との因縁の深さというものは空外教学にアプローチしてゆく上に不可欠の契機となることが考えられます。
ところで空外先生の後半になっての思想的展開の重要な概念として「各々性」という思想が登場してきます。この「各々性」の由来は『無量寿経』という経典にあります。この「各々性」はこの経典をよむ人は皆それに触れていたはずなのですが、この概念をクローズアップされて空外先生自身の思想として取り上げられ、そして先生ご自身、みずからこの各々性を生きられたのでありました。そしてそれは何よりも弁栄聖者との関係の上にもみることができるのであります。それは空外先生がどこまでも弁栄聖者への帰依がなされつつも、その弁栄聖者に空外先生が同化されるというのでなく、かえって弁栄聖者への帰依が深まれば深まる程、断固として空外先生が空外先生になってゆくのであります。京都学派と云われる西田幾多郎とその弟子たちとの間にもその傾向をみることが出来るのですが、空外先生の場合もまさにそれでした。同じく弁栄聖者のお弟子に田中木叉というすばらしい先達がおられましたが。かれの歌、
白は白 黄は黄のままに 野の小菊
とりかえられぬ 尊さを咲く
は、そのまま空外哲学の展開の上にもみることができるのであります。
ところで今日は弁栄聖者や空外先生と関連しながら一つの大きな問題を考えてゆきたいと思います。まず第一に仏身論について。この仏身論は弁栄聖者から空外先生のプロティノス研究の根底に流れているテーマです。それは弁栄聖者の「如来の在まさざる処なきが故に、今現に此処に在ります」(如来光明礼拝儀)に集約されて表現されているわけですが、それは実は私たち一人ひとりにとって又最大の課題であるのです。この仏身論は仏教全体にとっても最も重要なテーマの一つでもあります。
法然上人の場合、この仏身論に関する展開は余りなされず、むしろ仏身論は本願論に止揚される形で展開されました。それは法然上人が生きられた平安末期から鎌倉初期の時代は騒乱、戦乱の時代で何よりも人間の実存にかかわる実践が最大の課題であったからで、仏身論について充分に説明される余裕がなかったからでありましょう。しかし乍ら今や近代の哲学や科学等が進んで参りますと否応なく仏身論にも取り組まざるをえない。弁栄聖者の思想的特色の一つとしてかかる線上において論ずることも必要であります。たとえば宇宙の無限性の問題、これはヨーロッパにおいてニコラウス・クザーヌスが初めて論じ、ブルーノ等に継承され、又近代科学の成果としての銀河系宇宙の構造の解明等とも関わり、それは又仏身論と無関係というわけには参りません。
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この仏身論の問題はすでにお釈迦さまの滅後、間もなくの時代から起こっていました。
釈尊の生前には、仏身とはお釈迦さま以外には考えられませんでした。しかし乍ら釈尊の入涅槃後、弟子たちは釈尊という唯一のより処を失います。しかし乍ら肉身をもった釈尊は亡くなられても、釈尊の真のお体(法身)は不滅であるという信仰が必然的に生まれてきます。そしてその線上にやがて大乗仏教が成立してゆくのです。この問題を論じた古典的名著として姉崎正治博士の『現身物と法身仏』があります。
なお余談になりますが、今年は東大で、日本で初めて「宗教学」という講座が開設されて丁度百年になりますが、その講座を最初に担当したのが姉崎正治先生でした。そしてその最初の弟子が椎尾弁匡師でした。そして椎尾師はやがて大正大学の宗教学の講座の開設に連なってゆくのであります。そんな次第で日本宗教学会ではその百年祭という意味もあって今年は国際学会等盛大な記念行事が東京で種々の面で催されつつあります。
ところで釈尊の滅後、その舎利を収める仏塔(ストゥーパ)がインドの各地に建立され、その仏塔崇拝が仏身そのものの現在前の信仰と一体化し、やがて大乗仏教への展開に連なってゆくことになったのです。仏塔における仏身崇拝を大乗仏教成立の原点として論究したのは東大印度哲学科の平川彰教授(定年後早稲田大学に移る)でした。仏身は至る処に在ります(オムニプレゼンス)が、その仏身が仏塔の処に現前する(プレゼンス)という信仰は、まさに弁栄聖者の『礼拝儀』の世界と一つに重なり合っているということが云えるでしょう。そして私たち一人ひとりも念仏の実践を通じ仏身と連なっているのであります。そしてそれはまたそのままプロティノスの一者 to hen の思想とも連なってゆくのであります。すなわち「一者はどこにもあって、どこにもない」すなわち私たちに信仰がなければどこにもない一者である(超越面)が、しかしどこにもある、で一者の遍在が説かれる点で、空外先生にとっても一者はそのまま阿弥陀様であったのです。
なお仏塔崇拝に関しては、すでにその段階から、その建立に関してインド人のみならず、多くのギリシャ人たちも参画していました。その建立者たち(寄附者)の名簿が仏塔に刻まれているのですが、そこにはとりわけギリシャ人の女性の名が多く刻まれていることに注目されます。(中村元博士の研究による)。そしてそこには多くのギリシャ人たちか釈尊に帰依していたこともうかがわれます。アレキサンダー大王の印度侵攻(紀元前三二七年)後、インドはギリシャ文化の影響を大いに蒙るわけですがそれが仏塔信仰にもみることができるわけであります。そしてギリシャ人は元来、アポロン神等にもみられるように神様を形姿で表現する習性をもっていましたので、仏塔崇拝はやがて仏像崇拝へと進展してゆくことになります。そして仏像、すなわち如来様のみ姿を通しての念仏が深まってゆくことになります。弁栄聖者に「念仏七覚支」という歌があります。その最初に、
「弥陀の身色紫金にて
円光徹照したまえる
端正無比の相好を
御名を通して念おえよ」
の偈がみられますが、これは大乗仏教の成立の最初の期に成立した『般舟三昧経』という経典の文をそのまま七五調にして詠われたものです。(なお般舟とはサンスクリットの音写で「仏現前立」の意味であります。)
ところで現身仏と法身仏の二身説はそのまま展開され、竜樹菩薩でも生身物の二身説として説かれてゆくのですが、四世紀頃に活躍された世親菩薩の頃になると、法身、報身、応身の三身説が成立することになるのであります。弁栄聖者にもこの三身説がその基調となって展開されてゆくのであります。
しかしながらそればかりではありません。十九世紀も後半になってヨーロッパにおいて宗教学という新しい学問が成立することになりました。それまでのヨーロッパにはキリスト教以外に宗教はなく、どこまでもキリスト教的信仰に根ざしたキリスト教学以外に宗教学は存在しなかったのですが、今やヨーロッパ文化そのものが世界的に拡大してゆくと、世界の多くの宗教(たとえば仏教、ヒンズー教、神道等)が視野に入ってきて、改めてそのような広い視野に立った新しい宗教学が成立してゆくことになりました。たとえばマックス・ミューラー等はその代表的な学者です。かかる宗教学は狭いキリスト教の枠を超えた広い視野に立った学問(科学)であったのであります。たとえば神様についても、多神教、一神教、汎神教等が考えられるのでありますが、弁栄聖者はいち早くこれらの学説を取り入れられて聖者ご自身の仏身論を構成せられていったのであります。そしてそれは具体的にそれらの神観を視野に容れながら自らの立場を「超在一神的汎神教」として展開されていくのであります。すなわち阿弥陀仏を従来の仏教や浄土教的な枠組みを超えて超在一神的汎神教という新しい装いをもって展開されるのであります。それは真実なる神が私たちをどこまでも超越していながら(その点ではキリスト教的である)しかもその神が万有の中に、そして私たち一人ひとりの中に内在している点で汎神論でもあるというのです。また多神教も汎神論と重なり合うところがあり、その相互関係についても論究すべきであります。キリスト教的立場から云って多神教は低級とみなされて、キリスト教的一神教から多神教が排除されてきたのでありますが、しかしながら多神教は多神教として一概に否定さるべきものではなく、そこには又豊かな精神的内容を展開しているのであります。
たとえば日本の神道においては八百万(やおよろず)の神に対する信仰がありますが、その日本人の信仰が日本精神の豊かさの土台となっていることが忘れられてはなりません。またギリシャ人たちも多くの神々を信仰していました。オリンピックの名の由来の源たるオリュムポス ―それは紀元前一二〇〇年も昔、ギリシャ人が中央アジアからペロポネソス半島にやって来る以前、すでに先住民たちが使っていた高地(山)を意味することばで、そこには神々が存在していたという― そのオリュムポスの神々に捧げる競技がオリムピックゲームであったのですが、千数百年も続いたこの多神たちに捧げる競技も排他的なキリスト教的一神教によって紀元四世紀頃排除され、その競技は消滅していったのです。以後千数百年、この競技は途絶していたのですが、十九世紀も終わりになって近代オリンピックとして再出発したというのがそのいきさつであります。一神教と多神教との相剋は人類の宗教史に演じられる壮大な一つのドラマであったのですが、それら両者を止揚して超在一神的汎神教の立場を揚げられた弁栄上人の仏身論には大いに深い関心をよぶ処であります。
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この超在一神的汎神教における絶対的な神の超越と内在との止揚は、実はプロティノスの哲学においても展開されていたのであります。その点について空外先生はプロティノスの著者である『エネアデス』Enneades の中の文、すなわち「一者はどこにもあって、どこにもない。」の文をしばしば引用され、「どこにもない」点で超越的な一者が「どこにもある」と内在的である点を強調されていました。
なおこの超越即内在の思想はたとえば先生の研究のもう一つの焦点であったニコラウス・クザーヌスの思想の中にもみられます。クザーヌスはかれの初期の作品である「地ある無知」De docta ignorantiaにおいて神の包含complicatioと展開explicatio(この両者は一見矛盾対立しているようにみえる)について論じ、万物を超越し包含する神が、又地方万物の中に内在し、万物の中から神がみずから展開する、と云っているのであります。それはまさしく弁栄聖者の数学そのものの展開といってもよいでしょう。
このような思想を十九世紀のドイツの宗教哲学者K・Ch・F・クラウゼという人は「万有在神論」Pan-en-theismusという名のもとに展開しました。ここでPanは全、enはin、そしてtheos→theismusは神ですから、現代ヨーロッパ語におきかえるとall-in-Gott-Lehre(Lehreは説教の意)となります。それ故に一切が神の内にある、という意味になります。そしてそのところがクザーヌスのいわゆる包含の意味でもあります。またかかるクザーヌスの展開の立場からいえばそのまま又Gott-in-All-Lehre、すなわち万物の中に神が内在し、その神が万物の内から神みずからを展開する、という意味にもなります。それは又私たち日本人にとっても極めて身近な思想でもあります。それは一輪のすみれの中にも天地にみなぎる神性を看取するのが日本人なのですから。この万有材神論は西田幾多郎も最晩年(昭和二十年)になって到達したかれの最後の思想なのですが、それよりもはるか以前に、弁栄聖者において超在一神的汎神教として展開されていたものでありました。なおクザーヌスの万有在神論については、国際クザーヌス学会において仏教との関係で私も論じたことがあります。その発表は独文でしたためたものでその論集はイギリスから公刊されました。
しかしながらこのような万有在神論の思想は、たとえばバルト神学にもその典型をみるように神の一方的な超越性の強調される余り、内在性の立場が排除せられるか、あるいは逆に万有の内在性が主張せられて神の超越性が排除せられることにより、いわゆる汎神論、さらには唯物論の成立の原因ともなり、超越と内在との分裂、あるいはキリスト教と唯物論との分裂を来たしているともいえます。国際クザーヌス学会の折のドイツ人の一研究者もその点に関する論争において、かれらにおいて徹底できないでいる点を感じました。万有在神論自体を十九世紀の古い思想としてしか理解できずにいたのですから……
またこの超越と内在の関係は、クザーヌスにもみられるのですが、それは大宇宙=マクロコスモスと小宇宙=ミクロコスモスとの関係においても考えられます。大乗仏教の中でもその精華といわれる『華厳経』(とくに如来出現品)において「一微鹿中に三千大千世界がある」といった趣旨の文を見ることができますが、そこで大宇宙の中に包含されされる一微鹿の中にかえって大宇宙が包含されている、というのです。そしてその一微塵の中にある大宇宙をその中から展開するのが釈尊の本来の趣旨なのです。そしてその一微塵とは実に私たち一人ひとりの事に他なりません。それは余りにも驚異すべき事柄であるとしか云いようがありません。最近二ナノメートル(一ナノメートルは十億の一米を示す単位)という極微の遺伝子の中に三十億もの情報が内包されている(筑波大学名誉教授村上和雄氏の説)等との説等をも含めて今や哲学と宗教を包含した新しい展開をみることができるのであります。弁栄聖者も『人生の帰趣』というご本の中で「私たちの細胞(現代流に云えば遺伝子)の先端に阿弥陀仏の御はたらきとしての選択本願がはたらいている」旨の内容が論じられています。弁栄聖者から空外先生への思想の流れにはそれぞれ各々性でありつつ、またそれぞれが連なりあって豊かな展開をみることができるのであり、そしてそれらが私たちにとってこよなき指針となるのであります。
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