真理とは、その中に全体を含んでいなければ本当の真理とはならない。一部だけでは真理とはいえないのである。そして真理がその中に全体を含むところで体系が成立するのである。空外上人は常にすべてを全体的に展望しつつ思惟された体系的な思惟者であった。それは高次の哲学的思惟から茶道や書道等をも含め、日常の些細な万端にまで及んでいたのである。
ところでかかる体系的であることは、私たち一人ひとりの主体性とはかけ離れてしまうことが多い。しかしながら空外上人は生涯を通じての念仏の実践の中で、体系性を上人ご自身の主体性の中に生かされていたのである。
そもそも体系性なき主体性は速妄dunkeeであるが、また主体性なき体系性は空虚leerである。しかしながら上人においてはそれら両者がどこまでも一つとなって展開されていたのである。
何よりも南無阿弥陀仏の南無は私たちの実践の主体性のありようを示すのに対し、その南無に全体としての阿弥陀仏があらわれてゆくのである。その南無阿弥陀仏の実践の真の姿を私たちに具体的に示されたのが空外上人であったのである。 |