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―平成19年10月14日山本空外上人第七回忌追恩記念講演―
光の現象学・空の現象学

河 波 定 昌

【講師紹介】
1930年(昭和5年)京都市で出生。
九州大学を卒業し
京都大学大学院博士過程で西谷啓治博士に師事。
現在空外記念館理事長。
光明修養会上首。
東洋大学名誉教授・東京光明園主・東西宗教交流学会会長・
米国学士院終身特別名誉会員(アカデミシャン)・文学博士
阿波理事長


 本講述は平成十九年十月十四日、山本空外上人第七回忌法要の後、上人を記念してその講述の内容であります。

 空外上人がお浄土に還られてから、早や今年は第七回忌を迎えることになりました。年月の過ぎ行くことの早さに驚くばかりであります。
 さて今回は上人のご人格とその宗教思想とを記念(念に記し刻むこと−ハイデッカーの言葉)して、今回の講述を「光の現象学・空の現象学」としました。ここで特にご注意申し上げたいことは、今回のテーマが決して「光の現象学と空の現象学」ではありません。ここで「と」(英語で表すとandに相当します)を入れますと、光の現象学と空の現象学との二つがあって、これら両者を並列して二つの事柄として述べることになりますが決してそうではありません。光の現象学と空の現象学とはどこまでも一つの事柄であって、それを二面的に考えているにすぎません。すなわち光の現象学即空の現象学、空の現象学、即光の現象学であります。あるいは光の現象学はそのままがその全体を挙げて、空の現象学であり、また空の現象学はまたその全体を挙げて、そのままが光の現象学であるのであります。
 ところで今回は仏教の真理、あるいは念仏の真理を現象学Phaenomenology(英語)、あるいはPha¨nomenologie(ドイツ語)の立場からお話ししたく存じている次第です。
 この現象学という言葉字体はヨーロッパで成立した新しい哲学的用語ですが、念仏の真理を述べるについてこの現象学の立場は最もふさわしい言葉のように思われます。そして数千年来の大乗仏教の真理をこの最新の哲学的立場で展開するところにまた新しい宗教哲学の地平が開かれてゆくことも考えられるのであります。そしてこの大乗仏教の真理を現象学的に展開されたのが山崎弁栄上人(一八五九〜一九二〇)であり、また山本空外上人であられました。
 念仏が実践されてその信仰が活きている時、仏教の真理は現実的に現象することになり、単なる教義や教説、ドグマ等でなく、そのままが生ける現実そのものとなってゆきます。かかる点から云えば仏教の真理はそのままが現象学の内容となり、その豊かさを展開してゆくことになるのであります。
 さてしからばこの「現象学」という言葉はいつ頃から、またいかにして成立したのでしょうか。
 それは十九世紀の初めの頃、ドイツの哲学者、G・W・F・ヘーゲル Hegel(一七七〇〜一八三一)の著作『精神現象学』(一八〇七)顕著に展開されることになりました。この著作は哲学界でも三大難書の一つに挙げられる程で、私自身も京都大学の哲学演習で何年もの長時間をかけて読み終えました。その主旨は真理というものは決して超越的な、どこか別の世界にあるのではなく、それは現実の中から生起、現象するというのです。彼の批判の対象は特にカントに向けられました。
 カントは現象界と叡知界とに分け、私たちが経験する現象界を越えた処に叡知界を認めるという考え方に立っていたのでした。そのように世界を二つに分ける考え方を二世界主義Zweiweltenstheorieと云います。プラトンの考え方
もそうですが、さしあたり従来の浄土宗でも娑婆世界と極楽世界との二つに世界を分け、「捨此往彼」(この世界を捨てて彼しこの極楽に往く―源信僧都『往生要集』の言葉)がその教えの眼目となるものですが、これも典型的な二世界主義と云えるでしょう。
 ヘーゲルの現象学の立場はかかるカント的な二世界主義を突破して現象の中に真実の展開を説こうとするものでした。
 なおヘーゲルに続いて又独自の立場から現象学を展開した哲学者が現れました。その哲学者とは実は空外上人も直接在独中に訪ねられ、親しく交流された E・フッサール Husserl(一八五九〜一九三八)です。かれは「事象そのものへ」Zur Sache selbstを旗印しに現象学を展開していったのでした。
 なお現象学は更に宗教学の分野でも豊かに展開されてゆきました。いわゆる宗教現象学と称せられる分野であります。その代表的な人達として、ファン・デア・レウ、F・ハイラー、M・エリアーデ等、多くの学者たちの名が挙げられますが、今回私が「光の現象学」として論じるその用語自体は、F・ハイラーからとったものです。ハイラーはドイツ、マールブルグ大学の学者で、彼は二十世紀最大の宗教学者の一人でした。彼の晩年の著『宗教の現象形体と本質』Erscheinungsformen und Wesen der Religionの中で光の神秘主義Lichtsmetaphysik等の用語と共に「光の現象学」Lichtspha¨nomenologieの展開がなされています。
 そして弁栄上人の光明主義はまさに光の現象学そのものなのであります。すなわち極楽世界を死後の彼岸に求めるのでなく、「光明遍照十方世界」と光の包含の中にあって、念仏する私たちの只中に光が現象してくるのであります。そのことは例えば『如来光明礼拝儀』「如来光明歎徳章」(無量寿経所説の文)の中の、「斯の光に遭うものは、三垢消滅し身意柔軟に、歓喜踊躍して善心生ぜん」の文にもみることができます。なおここで「斯の光に遭う」とは念仏する人に光が現象してくることですが、そこで三垢消滅等と、私たちが光のうちへの転換せられてゆくのであり、いわゆる光化せられてゆくのであります。そしてこれこそが浄土宗で説く往生そのものの真実に他なりません。この処は光明主義の核心をなすものですが、それはまさに現象学そのものの立場に他なりません。そこではまさしくいわゆる形而上学の立場は超えられて現象学そのものと云えるのであります。
 なお浄土宗の宗歌ともなっている法然上人の「月かげの歌」も、実は光の現象学的展開そのものであります。すなわち月かげ(光)が念仏する私たちの心に現象しきたる(すむ)ところが詠じられているのであります。
 また私たちは宗派の枠に捉われて無理解にとどまっているのですが、真言宗の「加持」もまた光の現象学なのであります。例えば弘法大師空海は、かれの著『即身成仏義』の中での、
「仏日の影(光)、心水に現するを加と云い、衆生の心水、よく仏日を感ずるを持という」
 の文も、まさしく光の現象学なのであります。なお本質的に云えばこれらは仏教の真理としての縁起の理法の現象学的展開と云うこともできます。
 なお念仏をしていますと、いつの間にか私の心は阿弥陀仏に投入してゆくことになります。その時私の心は実は空になっているのであります。
 弁栄上人のご法語に、
「すべてを大ミオヤ(阿弥陀仏)におまかせ申し上げて大ミオヤを念ず。…あなたの心はなくなりて、残る処はただ慈悲の如来様ばかりとなり候」(大谷仙界上人宛のお手紙)
の文が見られますが、念仏三昧の実践はまさに「あなたの心はなくなりて」とあるようにまさにそこで空の世界が開かれてゆくのであります。空が最初からあるわけではありません。大乗仏教はその出発する最初から念仏と空は一つの心の営みでした。空の展開の背景は念仏なくしては考えられません。
 山本空外上人もその青年時代の求道期から念仏三昧の実践に専注され、そしてそこから空の悟りが証得せられていったのでした。
 空が語られるとしても、決して空という実体があるものでもなく(そのこと自体自己矛盾でしょう)、また空の論理というものがある訳でもありません。ただ空が体験されていってそれが反省される段階で空が論理化されて考えられるにすぎません。鈴木大拙師は『金剛般若経』に基づいて「即非の論理」を説かれ、西田幾多郎博士はそれとの関連で「絶対矛盾的自己同一」の論理を展開されました。それはそれでその論理的追求の努力は大いに認めるべきですが、それとても二次的な反省の段階にすぎません。
 かかる「空の形而上学」ないし「空の論理」等に対して「空の現象学」はより直接的であり、現実的wirklichであり、真実そのものに関わっています。空外上人は上人ご自身の念物三昧の実践に即しつつ弁栄上人の光の現象学そのものと連なりつつそのままがまた空の現象学として展開されていたのでもあります。そのことは「空外」の名そのものにも示されています。上人ご自身、「空が空にとどまっている限り、それは真の空ではない空はどこまでも外に働き出すことにおいて(即ち空外)、真実の空である」旨述べられたことがありますが、このように空が外に働き出すところに空の現象学の真骨頂があると云えるでありましょう。空は上人においては、例えば書道において、また哲学において、そしてまた何よりも上人ご自身の人格の上に現象していたのであります。
(平成十九年十月十四日 別時念物会講話要録)
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