当地の皆様はもとより、全国各地から多数お集まりくださって、こした開会式で、これからこの空外記念館が、「無二的人間形成」という別名で発足できますことは、まことに感慨無量でございます。
原子爆弾に遭わなければ、私は僧侶にもならぬし、またしたがって、ここには縁がございませんから、記念館もできない結果になりますけどけれど、あの地獄という言葉も当らぬような、さらに深刻な被害を目の前にして、私自身、九死に一生を得て、本当に、勝つも負けるも、罪のない大勢の人を殺したりする戦争のある限り、人間とは言い難いのではないかと思いまして、人間が人間になっていくのには、どういう心がけが必要とかいうことで、「無二的人間の形成」ということに取り組むことになりました。
もとよりそういう方向で学問の研究もし、自分も宗教的な修養をしてきましたから、そういう背景と土台で、原爆の被害を目にすると同時に出家して、もともと仏教の根本でもある、自分の心を深めながら、自分が自分に帰り、他人をも、また取り組む相手をもすべて生かしていくという、自・他ともに平和で幸せな生活がまっとうできるはずだということで、この私の米寿の記念に「空外記念館」が発足できることになりましたのですが、全国的な学問的会合で発表したのは、昭和30年の不思議にこの10月15日、今日に当る日で、東北大学で、全国の倫理学会の公開講演に、私が「無二的人間形成」(平和を約束するもの)という副題で講演したのが、和辻哲郎氏の文化勲章の記念論文(和辻哲郎先生文化勲章受賞記念論文集『倫理学年報』第六集巻頭論文「無二的人間の形成序観」)に掲げられましてですね、以後、学会にもその方向を示してきたのですけれども、そういう思想的、観念的なことにとどまらずに、自分自身の生活「無二的」な方向で、いかなる人々とも互いに、平和なうちに幸せを深めて、人間として生まれた生活の実りをまっとうしていくということで、この記念館の開館に至ることになりました。
4年前の昭和60年に、このことが具体化し出しまして、8月には、県で私が責任者にお話したのがもとで、翌年の61年の4月には財団法人として認可になり、以後3年余り経ってですね。建物が、古代の木造建築の土蔵風な、そして釘一本も使わない、その長所を生かして、かつ、屋根は西洋科学の最先端のチタンを使ったのは、恐らく千年、二千年と言う人もありますけれども、耐え得るので、そういう東西の文化を総合した外形ですけれども、そのことがそのまま内部の記念館蔵品の性格をもあらわしているのです。内外相応して、東西を通じ、世界にこれしか今のところない、初めての内容のものです。
一言で申しますと、一人の「空外」の一生涯の人間形成が、端的におわかりいただける、という構想になっているのです。
私はギリシャ哲学が専門ですが、そのギリシャ哲学がわからなければ、仏教も、本当にはわからぬのです。
仏教といえば、まずだれでも知っているのが「仏」さまですが、この仏像でも、ギリシャ人が始めたのでして、アレキサンダー大王(前365-323)の遠征によってガンダーラが占領されまして、そしてアポロンの神像を拝んでおったギリシャ人の習慣がインド化して、これがアポロン仏という仏像の始まりとなったのですから、もうそういうように、西洋の文化がわからなければ、「仏像の起源」もわからぬのです。
のみならず、その思想が、西洋では、さかのぼればプラトーン主義、それと並んでアリストテレース主義、前者の「昇り途」と後者の「降り途」を総合したのがプローティーノス(204-270)という人で、紀元三世紀の古代ギリシャの最高の哲学者です。それを私は学位論文に書いて、まだ日本でそういう研究もないときに、昭和11年にその論文を出版したのですが、その付録に、ニコラウス・クザーヌス(1407-1464)といって、中世ヨーロッパの最高の思想家の一人に数えられる人の、今からちょうど550年前、ドイツ、アウグスブルクで行われた有名なクリスマスの説教(1439年)の原稿を、ラテン語から邦訳して載せておいたのですが(Dies Sanctificatus 浄化された日、「キリスト降誕日」と意訳)、西洋がそれまで、古代・中世を通じて「人間」と「神」ということしか考えなかったのが、初めてフランス民族とか、ドイツ民族とか、イギリス民族とか、イタリー民族とかの民族文化を主体にするようになった発展の道が、このクザーヌスのルネッサンスによって開かれることになったのです。そのクザーヌスの「知れる無知 De docta ignorantia」つまり、「知らない」ということを「知っている」という深い含蓄を持った内容の主著が、その翌年の1440年2月に出版されているのです。そして来年で550年になるのです。
このようにして、今はその考え方が決定的に世界を方向づけておりますから、そのクザーヌス研究の第十九巻目に当たる大論文集(MFCG;Mitteilungen und Forschungsbeitrage der Cusanus-Gesellschaft,Bd.19,1991)が出版されるのですが、それに私の研究がドイツ語訳されて載ることになっているのです。ですから、この記念館の中身の方向というものは、もう世界的な方向へ直結しているのです。
「無知」ということを「知っている」、それはそうでしょう、物理学は、幾ら研究しても、せいぜい物理の上のことであって、何も物理学だけでこの大自然が動いておるのではないのですからね。我々だってですね、物理的方面も大事で、身体の用心は、その方面からもしなければいけませんけれども、私たちの身体というのは、何も物理的方面だけで生きているんじゃないですから。生きていることに対しては、物理学なんか百万分の一にも当たらぬですね。その方面で少し分かったというても、全体から言えば、「わからぬ」ということが「わかる」ぐらいのものです。
それがわからぬから、今日の戦争とか、国際対立が激化していくのです。が、それさえわかったら、「知らぬ」ということがわかってくれば、そんな自分の浅い知識ぐらいで、人を殺したり殺されたりするようなことを起こす筈はないのです。
ところが、そういう「知らぬ」ことを「知る」ということは、クザーヌスより250年も前に、我が国では法然上人(1133-1212)が、あの知恵第一と言われた法然上人が、『一枚起請文(1212)』というのを最後に書かれて、その結びの言葉に「一文不知の愚鈍の身になして(中略)、知者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」と書き残しておられます。この「一文不知の愚鈍の身」というのは、決して「ばか」だという意味で書かれたのじゃないのです。いちばん賢い、偉いんだけれども、そういう人ほど「知らぬ自分」だ、ということがよく「わかる」んですね。それで、平和のうちに、みんな力を合わせて平等に、幸せな、人間として生まれた生活を実らせていく、そういう方向へ進むことができるのですから。
法然上人というのは、八百年前の鎌倉時代に、新仏教の開創という、ルネッサンスの先駆けをされたような方ですが、このルネッサンス(renaissance)というのは、「re(ル)」は「再び」、「naitr(ネートゥル)」というのは、「生まれる」、一度お母さんから生まれるけれども、もう一遍自分に帰って、自分が人間としての生活を全うしていかなければならぬということで、一人ひとりの問題になってくるのですね。そういう基礎が、西洋では550年前にドイツ人のクザーヌスによって確立されたのです。それで今日、クザーヌスの考え方が、全世界の有力大学で研究を続けられることになって、もう19年たちました。その研究紀要の十九巻目に今度、私が一昨年同志社大学で行った講演がドイツ語訳されて載せられることになったわけです。
私がさきに述べたクザーヌスのラテン語説教の全文を翻訳して「哲学雑誌」(東大、昭和10年3月号)に掲載したのは、もう五、六十年前のことですけれども、その考え方が、今日世界で重要な考え方のトップに立つことになるんですね。ですから、この間の五、六十年間、世界や日本の思想界、宗教界は何をしておったかというわけです、私から考えれば。
そういうわけですから、世界は進んでいるようだが、少しも進んでいないんですね。が、この記念館だけが、もう五、六十年前からその方向が決められていて、毎日を進む中、たまたまあの原子爆弾の被害に私が出会ったのをよりどころにして、一層こういう形にあらわれたようなものでござまして、この内容については、私の書道観も背景にあるのです。私自身がなぜ書くかといえば、もう二千年前から、「書は人なり」という考え方が東洋にはあるからなのです。
今、お話しくださった石橋犀水博士は、日本の書道界の最高の人で、伊豆に書道芸術専門学校を日本に初めて、いや、世界に初めてお建てになって、ことしが10年目の記念の催しが行われるんですが、すばらしいことです。私は、書道芸術教育ほど大事なものはないと思いますね。なぜかというと、「書は心の画」(『揚子法言』十三巻第四巻・著者は漢の揚雄)と言われておりまして、どんなに見かけが、財産が豊かだとか、地位が高いとかであっても、その人の書いた字で「心」の程度が決まるんです。
日本で書道といえば弘法大師(774-835)を考えますでしょう。弘法大師は、空海で、「空」という字は私と通じておるんですが、その「筆を択(えら)ばず」という言葉が一般に使われており、聞きなれてはおりますが、これは、どんな筆でもいい書をかいたという意味ではないのですよ。が、普通にはそう取っているでしょう。ですから、日本人にも日本語の意味がわからぬままに今日まで来たのです。
私が世界で初めて申すことだと思うのですが、弘法大師が「筆を択ばず」と言われるのは、どんな筆で書いても上手な字が書けるという意味ではないのです。書けるのなら、一生苦心して立派な筆をつくろうとする人はありゃしませんですよ。立派な筆をつくるほど相応な字も書けるのですけれども、立派な筆を使っても、自分勝手に使うと立派な字は書けませんですね。
どうするのかというと、筆だけでは字が書けぬのですから、例えば紙に書くでしょう。が、その紙を漉(す)く、というのも、また一生涯の大仕事です。だから、それほど苦心した紙を生かして、生かせるような筆使いをすることが大切です。筆と紙との二つを「無二的」に使わねばだめです。「無二的」というのは、お互いを生かし合う、ということです。自分勝手じゃなく、自分も生かすが、相手の紙も生かすんですね。筆も生かすんです。筆といっても、羊の毛もあるし、馬の毛もあるしですね。私が佐賀の有名な隆太窯へ行ったときに、大普請の記念の額の揮毫を頼まれたから、揮毫してあげました。そのときにですね、たくさん焼き物の皿なんかつくってみえるから、それに字の書けるものは何かないかと聞いたら、「今、何もありません」「何もないのか」と重ねて尋ねると、「牛旁(ごぼう)なら植えとります」と言うから、「掘ってきてください」と申してですね、私が牛旁で書いた字があります。それでも、この記念館におさめている字のうちで最高の字です。今回それを出すだけの場所がないから、出しておらぬのですが、この空外記念館の蔵品目録の中に入れておるのです。皆さん想像もつかぬでしょう。牛旁で書いた字を見て、「これは牛旁で書いた」ということがわかる人は、世界に一人もいないでしょうね。だから、大抵の人が本当のわけはわからぬのです。私は、自分が書いたのだから、「牛旁で書いても最高の字が書けるな」ということがわかるんですが、経験のない人にはわかりませんね。それを「知るほど、知らぬ」というのです。
牛旁で書いた字を、私が知ったからといって、ほかの材料で書いた字が皆わかるわけではないのです。しかし、紙へ書けば紙を生かし、木へ書けば木を生かし、また土で出来た焼き物へ書けばですね、土というのはスプーン一杯の土にでも微生物が何十万といるのですから、生命の結晶(かたまり)みたいなものですよ。その土に、初めて人間の生命も単細胞として、三十億年前にできたのです。そういう土へ書くのですから、これはもう土を生かして書けば、最高の字が書けるはずです。私が書いておるのが幾らも並んでいますから、ごらんいただきたいと思いますね。
だから、その書く相手を生かしていけば、本当に最高の字が書けるわけですね。それで、筆も生かさねばならぬのです。硯のことも、墨のことも話せばきりがないんですがね、いい墨で書けば、また使った筆も本当に見事な字が書けるのです。また、いい墨をいい硯で磨(す)るのはまあ私はいろいろな経験をしましたけれども、人生の楽しみの一つと思いますね。本当に、古墨を古硯で…、古硯というても古いだけではなく、私がここに今皆さんにお目にかけておる硯というのは世界一の硯の一つですがね(本端渓水帰洞硯質無類、例えば、硯面ほぼ中央の氷紋及び裏面の蕉葉白、なお荘子秋水篇の故事の画題の刻)。「氷紋」というて、細い数センチの線が近接して放射線状に丸くあらわれているような硯は、どんな硯の研究を見てもないです。そういう世界一の氷紋が表面の中央に見事に出ている、それだけじゃありません。「古池や かわず飛び込む水の音」という句が芭蕉の句として名高いですけれども、これは本来は荘子秋水篇に述べられる故事で、それをこの硯は刻しており、裏面で、この蛙があまんじゃくと問答して負けて、表面の古池に当たる四角な、水を入れるところへ飛び込む、ちょうどそのことを彫るのに都合のいいような、蕉葉白と言いまして、蛙に当たる青い色の出た石質の硯なのですよ。そういうようにして、これは話せばきりがありませんが、その硯を彫った人も、当時の第一人者(陳恭尹・1631-1700)ですね。それから、彫っていただかれた人も、中国第一の文豪(王漁洋・1634-1711)です。私がそれで何年も、気が向いたとき、いい古墨を磨って書いたのが、『浄土三部経』の巻物で、そしてあとまた数巻書いたものがありますが、今回は、ここには出すことができません。何しろ広くありませんから、何分の一しかここに出ておりませんけれども、皆さんがどれをごらんくださっても、右に出るものはないというものばかりであります。
オランダの「水指」もあるし、そのほか南方の、タイやビルマのキンマ(蒟醤)の「茶入」もあります。キンマは木の実などを入れたという入れ物ですが、木の実を食べれば、捨ててしまって、今はもう何も現地には残っていないのに、日本人というのは、それを大事にして、「仕覆」に入れてですね。またその絹の織物自身も最高なので、こうして今日に至っておるのです。それから、「オランダの水指」というのは、オランダでつくられた焼き物で、もと医学が進んでおりましたから、薬を送ってきた入れ物です。飲んだら捨ててもいいんですよ、オランダでは皆捨てておるのです。日本では、その捨ててもいいものを、大事に水指として使用しており、それがまた、水指としては第一級のものですよ。
というようにしてですね、よその国ではもう使いかすだから、捨てておる。それを大事に生かして、どんな水指と比べても右に出るものがないというような、水指として生かして使うんですね。日本の文化を「まねをする」というように考えるのは、それは、オランダの水指を使ったり、南方の木の実を入れたものを「茶入れ」に使っているからまねぐらいに思うんですけれども、違うんです。「生かして使う」ということなのです。
だから、「弘法筆を択ばす」というのは、筆も良いほどいいんですけれども、使い方が、その筆の値打ちが出ぬような使い方をしてはいかぬということなんですね。また、紙へ書くのだから、紙を生かし、あるいは木へ彫るのだから、その木を生かして書くのですね。土に書くのも同様です。
というようにして、相手を皆生かしていきます。墨をつけるのだから、墨を生かして使わなければならない。濃過ぎでもいけぬですし、薄過ぎてもだめです。その濃淡の妙を、古墨で、古硯で、見事に磨ったのを使えば、最高の書になるということです。総合芸術ですから。それで、筆だけで書けるんじゃないから、この書く相手が、紙のこともある、木のこともある、土のこともある。それから、また筆もですね、兎の筆もある、馬の、そのほかいろいろにありまして……。
また軸筆も一様ではないのです。
皆さんお目にかける中に、「明墨(みんぼく)」と言うて、明時代の、墨だけでも、これはもう、値段が「金」ぐらいするのです。いや、金では及ばぬですよ。それが軸になっておるのです。そして、羊の毛が穂先になっておるけれども、私らが、いま水につけて使うても立派に書けるんですよ。このはめ込みが少しも狂わぬのです(中国明墨軸筆・蒹葭堂遺愛品)。今ごろの筆はすぐ狂うのがありますが、何百年たってもびくともせぬ筆です。二百年、三百年たっているんですよ、四百年のものも。それがまた、穂が草のこともあるのです、羊の毛じゃなしに。それが今もまだあります。草筆の世界最高のがあそこに出ておりますから。(日本羊毛草筆・日本藁筆・中国藁筆)
というふうにして、もうそれしかないという…。例えば、先ほど「古池や」という芭蕉の句を挙げましたが、その芭蕉は、今年「奥の細道」の旅へ出かけて三百年の記念祭で、あのお入りくださった一番初めの小さいところにですね、芭蕉が「奥の細道」へ出かけたわけも、期日も、その手紙を見て初めて決まるような、その手紙が掛けてあります。それも、それ一つしかないものです。
そのほかに、加茂真淵(1697-1769)が本居宣長(1730-1801)に手紙を出して、「松坂の一夜」を語ることになった、その手紙もあるのです。そのことで、本居宣長は、加茂真淵・大先生の弟子になってですね、日本の『古事記』、『万葉集』をまとめたんです。もしその一夜がなかったら、日本学の『古事記』、『万葉集』はいまだに学問になっておらぬですよ、学問的体系づけを得ておらぬですから。それは文化じゃないんです。学問的体系づけをして、初めて文化になるわけです。そういうようなものがここにはあるのです。ほかにあるはずはないですね、本居宣長の手紙ですから。
というようなもので、ここにあるものは、天下にそれだけしかないものばかりです。しかし私は、そういう方面の、専門の学者として取り組んでいるのではありません。専門の学者としての研究分野は、古代ギリシャの哲学ですが、また、古代ギリシャの哲学がわからなければ、仏教も本当にはわかりかねるのです。仏教からだけでは仏教はわからぬのです。なぜかというと、先ほど申し上げたように、仏像もそうです。また、『般若波羅蜜多心経』の「般若波羅蜜多(prajna paramita)」ということも、もう西洋文化の影響なんですから。
だから、記念館にお入りくださると、二階の正面の奥にギリシャ語とかラテン語とか、またドイツ語やフランス語とか英語とかの、西洋の文献を集めてあるのですが、それもみんな入り切らぬから、残りは蔵へ入っておるようなわけで、仏教もその他の東洋の文献を入れるところがないほどです。
ともかく、開館できるまでに至ったことには、この当地の方々のお力添えは無論のこと、全国にわたって、私の知っている人も多いですけれども、知らぬ方々までが本当に御苦心くださっているのですね。ゆうべから今朝にかけて、そういう方々のお名前を一読してみましたけれども、涙が出るほどで、そのほか、この記念館ができるについて、何年間も、自分のことのように、否、自分のことではそうまでなさらぬかもしれぬほどに、尽くしてくださった方々がとてもたくさんおられて、全くそのおかげでできたものでございます。
これからの世界文化は、この「無二的人間形成」、つまり自分も最善を尽くすが、相手も生かし切って、ともども平和なうちに、人間の値打ちのあるよな生活を実らし切っていくという、「無二的人間生活」しかございません。
それを、「生涯教育」と名をかりて、今一般に言われているのは、ただ作文ですね。役人さんがその名を使っている間だけで、その役をおやめになったら関係ないんです。自分は、「損」とか「得」とかいって、平凡な生活をしている人が少なくありません。
ところが、「損」とか「得」とかいうものは、考えてみると、実体がなく、例えば原子爆弾で被害を受けた人が一番の損で、これほどつまらぬことはないようですが、そのつまらぬことのおかげで、私は出家して、このお寺の住職になったので、ここにこういう、世界に一つしかない記念館もできたわけで、原子爆弾という一番望ましくないことでさえ、おかげにすることもできるのです。
あの原子爆弾をつくったオッペンハイマー(1904-1967)という人が日本に来たときに、小田原にいる井上三綱(さんこう・1899-1981)という画家を訪ねて、半日も話していた。五分間と会って話をすることも難しいぐらいの、忙しい人なのにですよ。ニューヨークの富豪の家に生まれた人で、自分の書斎にはピカソの絵をかけ、こちら側に井上三綱の絵をかけているのです。「井上三綱」というても、皆さんのうちにはご存じない方もあるでしょうが。
それで三綱さんの話をするんですが、その井上三綱画伯は、原子爆弾をつくった世界一の物理学者が「君と兄弟になろう」というくらいだから、これはもう普通の画家ではないですよ。その人が十年間、私の意見、考えで、絵を描いてきた。その記念に、私が「寅の年」に生まれているから、14年前の寅の年に、私の法蓮寺という京都の寺へ来て、肖像画を描こうと言ってくださったんです。それで私は、「まあ、おたくのアトリエへ行きましょう。その方が道具も皆ありますから」と言うて小田原へ行ったのです。そうして描いてくださった大事な肖像画が、あの一階にかけてあります。
一階には、また「廚子」が立派にできておりますが、その廚子をつくられた木下さんという方がここに来ておられますけれども、これがまた、日本にそういう人は他にないぐらいのすばらしい人で、あの廚子が、百年もたったら世界一の廚子になることは、もう明らかなことです。私は、「廚子」の古い、よいものも見たことがありますが、比較にならぬですね。
不思議なことに、書道の石橋博士と、それから今の、オッペンハイマーが「兄弟になろう」と言った井上三綱画伯と、それに木下肥丸(としまる)という廚子をつくった方も、皆、福岡県の人です、三人そろうて。本当に不思議なつながりでございますけれども。
また井上三綱さんのお話になりますが、三綱さんは、絵がうまいだけじゃないんです。私が14年前に小田原へ行ったときに、書展をしておられるのです。画家として書展のできる人は、ほかにはないですよ。自分のサインですらろくに書けぬ人もあるぐらいだから。絵だけ描けば芸術家だと思うでしょうけれども、違います。「書は画と均(ひと)しうして岐致(ぎち)なし」と中国の『芥子園画伝』という名高い画伝の序に書いてあるのです。書も画も第一等と言えるような人もありますよ、石涛(1642-1707)のように。それもこの記念館にあります。
井上三綱という人は、すばらしい画家で、なぜすばらしいかというと、『古事記』、『万葉集』の百体、百人を絵で描いているのです。井上三綱という人は、また音楽もできるのです。北京の音楽院が、NHKから四曲送ってもらっていますよ。しかし、音楽は大切なことではないでしょうか。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」というのでも、あれは音楽ですから。法然(1133-1212)、親鸞(1173-1262)の解釈もいろいろありますが、私は、南無阿弥陀仏を音楽だといつも言うております。「いのちの音楽」だとね。
この「生命(いのち)」というのは、一息ひと息に生きているんですが、次の息では死ぬかどうか、わからぬのです。それで、日本の奈良の大仏ができる70年前に、そのもとを中国でつくったのは、善導大師(613-681)という人で、日本の大仏は、中国でつくられたその大仏(龍門の石窟)を手本にして造ったのですが、その善導大師が、「一心専念弥陀名号(一心に専ら弥陀の名号を念じ)念念不捨者(念念に捨てざる)」ということを言っています(「観経疏・かんぎょうしょ」)。「念念に捨てない」、念々に生きていることが、その生命の音なのです。「南無阿弥陀仏」と言うのは、一息一息で言えるのです。お入りくださると、芭蕉の手紙の次の、一番初めに私が「南無阿弥陀仏」を書いているのは、ただ浄土宗や真宗といった宗派の説明で言う「南無阿弥陀仏」じゃなく、善導大師が言われる「一心専念弥陀名号」の意味ですね。「念念に捨てない」というのは、念念(一息、一息)、それで生きているということです、「生きている生命の音楽」ですよ、「南無阿弥陀仏」というのは。ですから、私の称える「南無阿弥陀仏」と、皆さんの称えなさるのは、みな違います。ちょうど音楽の曲にしても、音の高さ低さにしても、歌いなさる一人一人で違うでしょう。それと同じように、みな違うのです。その人の生命が呼吸している音ですからね。
「阿弥陀」さんと一緒に呼吸しなければ、自然の生活を全うすることができがたいでしょう。「損だ」「得だ」とか、また「よい」とか「悪い」とか、「つまる」とか「つまらぬ」とかいっていたのではですね。一番つまらぬことを、一番つまるようにする。先ほども申し上げましたように、私が原子爆弾に遭うていなければ、この記念館はできていませんし、記念館ができなければ、「無二的人間形成」というような、今後世界で一番大事な生き方というものは、世に形をとらぬままになるのですよ。原子爆弾に遭うたおかげで、私が「無二的人間形成」ということを、学会にもじかじかに伝えてですね、それはどうしてなれるか。この記念館が示しているように、私がなっているのですから、皆さんの「だれでもがなれる」という証拠を挙げているわけです。
何事も生かすという問題はですね、弘法大師だって、32歳で中国へ行かれたのですが、そのときに出会うたのが、長安の、世界一のお坊さんの恵果(745-805)という人で、恵果はそのとき60歳で、何百という中国人の弟子はおるんですが、跡継ぎにできるような人が乏しく、この親子ほど年齢(とし)の違う弘法大師を見るとですね、「ああ、君の来るのを待っておった」と言って、真言の秘密の法をみんな伝えて、「早く日本へ帰って忠孝の道を全うせよ」と言うたんですね。で、すぐ帰ったのですが、その一目会うたことが、弘法大師を、弘法大師は62歳まで生きたけれども、あの日本一の弘法大師にしたんです。それは、中国の恵果和尚に出会ったおかげなのです。
みなさん、親鸞聖人は偉いですけれどもね、あの偉い親鸞が、29歳のときに法然上人に一目会うたんですね。一目会うて、親鸞聖人は、90歳まで生きていた間、ずうっと法然上人をお師匠さんとして、あの立派な宗教をまとめたんですよ。だれのおかげかといったら、やはり法然上人のおかげですね。だから、「おかげを生かす」ということしかないんです、人間の文化というものは。
私も、辨栄上人(1859-1920)という方には、会うてはいない。会おうと思っていたら、亡くなられたんです。が、その辨栄上人の「十二光」という、この日本の仏教を、西洋の思想と総合できる体系にまとめて、そのことを茶杓にも削っているんです。これも辨栄上人との仏縁を生かしたおかげです。
今の漢訳の『般若心経』も結構で、石橋博士はもう一万巻に迫ろうとされて、日々御揮毫で、その一幅が今も館内にかけてありますけれども、しかし、梵文の『般若心経』を読むと、一般の漢訳では疑問のところがわかるのです。私はギリシャ哲学が専門だから、サンスクリット(梵)語は同じ系列の言葉ですから、よくわかる。インドの言葉ギリシャの言葉も、ともにアーリア語といって、同じ言葉です。ただ、文字の格好が違うだけで。「原子」のことをギリシャ語で「Atomアトム(分割され無い)」といいますが、サンスクリット語の「阿弥陀(Amita 計量され無い)」の「A 阿、ァ(無〜)」というのと同じ意味ですよ。それを、「阿弥陀さんはおるか」とかですね、それでいて「原子」の方へはほれ込んだりしておるのは、原語の理解が乏しいからでしょう。
だから、今までの『般若心経』を読んで、ここはもう少し何とか考えねばなるまいと思って、もとのインド語(サンスクリット文)のものを読むと、インド語のには、私が考えたように正確に書いてあるのです。それで私が、それを漢訳して、また和訳もして世間に発表しており、いま外国にも行っています。記念館の二階にそれを私が揮毫して出しております。
なお、尺八でも九州一という78歳の人ですが、私の新しく訳した『般若心経』の漢文と和文を、2本の茶杓へ彫っていなさるんですけれども、まあ、あの小さいところへね、『般若心経』を全文彫ってくださった。もう根気が尽きて、二度とはよう彫らぬと言われたぐらいに、一生懸命になって彫られたのが一緒に出ております。
私は、「十二光」の茶杓を作ったと言いましたが、それぞれで12本作っておるわけです。普通に茶杓というと、だれが作ったといえば、大抵は格好が決まるものです。ちょうどだれの字といえば、大体想像がつくようなものです。が、私の作ったのは全然違いますよ。自然界には、本当は同じものはないのですから。梅の花を見ても、何百、花が咲いていても、一輪一輪みな違います。菊の花でも、鳥でもですね。例えば、「鴬」いう名前は同じでも、山の鴬と、町にいる鴬と、またイギリスにいる鴬とは、鳴き声から全然違いますよ。
同じものは世界にないんです。それが、科学だけでしょう、2・2がイコール4という、イコールを考えるのは。しかし「2」といっても、人間の「2人」、犬の「2匹」とは違うじゃありませんか。「文化」というのは、「人間が人間でなければできぬ」ことを各自各様に実らして、なるほど人間に生まれてきた値打ちがあるということを全うしなければ、文化じゃないですね。
私がつくった茶杓は、あそこへ12本並んでいるから、見てくださいませ。だれが見ても、12本とも皆、違いますよ。これが同じ人の作かというほど違います。それは、竹が違うからです。節の場所が違うから、先の削り方が違うからです。
それが「茶道」というものです。だから利休さんはですね、茶席へ入って、まず床の掛け物を見ると、「俗っぽい人の掛け物なら掛けぬ方がよい」と言うたんですが、全くそうなんです。
茶席で拝見といえば、この茶杓と茶入れでしょう。その茶入れを私が初めてつくったとき、そばで横山という人が見ていた。この横山さんは、「電気の鬼」と言われた故松永安左衛門翁が信頼して、今、東京博物館の広い一室がみな、松永安左衛門さんの茶道具の遺品ですが、それをほとんどおさめた人です。それほど、目がきく人です。その人が見ていたんです。私は素人ですから、最後に手を離すところがちょっとゆがむんですね。真ん丸につくれぬのです。玄人は真ん丸につくる。が、真ん丸につくったのは、だれがつくっても真ん丸いんだから、我々が見ると、作品としては値打ちがないんですよ。だれでもつくれるものをつくったところで、値打ちはない。私でなけりゃ曲らぬような曲りを見せるんですね。それを、横山という名人は、見ておったから、とうとうそれができ上がったときに、自分の手元に置いて一年放さなかったんです。まあ、あれは私の長男に当たる作だからいただきましょうと言うたら、立派な仕覆に箱をつけて下さった。それを今、皆具とともに出していますから、見てください。
ですから、どんなに初めてつくっても、天下一品にできるんです。が、またどんなに長くやっていても、商品におわるものもあります。しかし、このことは、実は私だけができるんじゃないんで、だれでもできるのです。そういう逸品が皆、一階にも、二階にもありますから、どうか皆さん、ごらんください。今日はわざわざおいでくださって、本当にありがとうございました。長話しをして済みませんでした。これからも、どうぞこの記念館をお護りいただきたいと思います。失礼いたしました。
(平成元年十月十五日の開館式におけるご講演を収録いたしました。) |